こんにちは。フィック代表の藤川純です。
先日、父であり創業者であり現会長である藤川信雄が「自叙伝を書いたから読んでくれ」とレポート用紙を渡してきました。
「自叙伝?? なんやねん、忙しいのに・・・。」
と迷惑そうに受け取ってしまったのですが、パラパラとめくるうちに、
・父親はどんな人生を歩んできたのか?
・自分と同じ歳の頃、何に悩んでいたのか?
・どんな気持ちでフィックという会社を作ったのか?
・経営理念の元になった出来事はなんだったのか?
といった、自分にとってとても大切なものが、今まで深く知ることのなかった父親の人生から感じられるような予感がして、思わず最後まで一気に読んでしまいました。
今回、その自叙伝・・・いわば「フィック物語」をホームページ上で公開することに決めました。
本来、人様にお見せできるようなものではありませんし、他人の自叙伝に興味のある人もいないと思います。
正直、掲載するべきか迷いましたが、「フィック」という会社の本当の姿を知っておいて頂きたいという思いから、公開に踏み切りました。
素人が書いた文章なので読みにくい上に、恐ろしいほどの長文です。全てのお客さまにお勧めする内容ではありませんが、
「フィック」について興味がある方がいらっしゃれば、ぜひ最後までお付き合い頂ければ幸いです。
株式会社フィック
社長 藤川 純
私、藤川信雄が和歌山県の田舎のみかん農家の次男として生まれたのは太平洋戦争の真っただ中、昭和18年4月だった。
みかん農家と、父は左官工事の仕事をしていた為、裕福ではなかったが5人兄弟の末っ子としてそこそこ可愛がられて育った。
負けん気の強い小学生 中学生だった。決して頭はよくなかった。それだけに勉強は人一倍した。5才年上の兄によく言われた「勉強するのも良いが家の仕事を手伝え。」と。
高校を卒業したのはちょうど高度成長期で、証券会社勤務の兄の勧めでダイキンに入社することにした。
兄曰く”高卒で就職するには、大企業より将来高卒でも認められる可能性の高い企業のほうが良いだろう”との事だったからだが、哀しいかな、ダイキンでもやはり、高卒で組織の中で定年まで勤めても所詮限りがあることを身をもって知ることになり、将来の自分の生き方に迷いが出てきた。
ダイキンに勤めて5年目の春、ついに転職を決意した。技術職以外の何かをやってみたかった。
ある日新聞広告で営業の広告が目に留まった。外資系の教育図書の販売会社だった。
先輩達のデモンストレーションを見た時、「私にはとても無理だ」と思った。しかしそこに一人のおとなしい優しい先輩がいた。彼は私と偶然同姓であり親しみを感じた、又彼も真剣であった。それもそのはず、この会社の営業マンの給与体系はフルコミッション制であり部下も自分で募集する。部下の教育も全て自分でしなければならなかった。新聞広告その他経費もすべて本人持ち、すなわち私も彼の経費で募集され教育も受けた。
この会社の良い所、それは営業初心者でも すぐ一線で活動できるマニュアルがあったことだ。
そして部下を募集し教育すれば部下のオーダーの一部も本人にもいくらか還元され、役職も与えられ、そして大きな収入が得られる。
やりがいは充分にあった。
先輩の指導のもと、何とか最前線で動けるようにはなったものの、営業の世界は厳しく、毎日朝早くから夜の11時まで、足に豆を作り 手には鞄タコができるほど駆け回っても、初めの3ヶ月はワン・オーダーも取れずダイキンの時に貯めていた30万円の貯蓄もほとんど使い果たしていた。
だから初オーダーが取れ、公衆電話を探し上司に電話を掛けた時の喜びは40年近く経った今も脳裏に焼き付いている。
それから後は販売のコツも掴めたのか、面白いほど売れる日もあった。入社4ヶ月目からは平均週給(この会社は週給だった)がダイキン当時の月収を遥かにオーバー出来るようになった。
入社一年を待たず100オーダーを突破し、役職も得た。車で回れるようにもなり、売上は順調に伸ばし、やっと軌道に乗ったかのように見えた。
だが問題も発生してきた。
契約を追い求める余り、それぞれの営業マンは契約の容易な低年齢層をターゲットにしだした。
それは高校卒業間もない若い会社員である。なにせ彼らはまだ世間をあまり知らない。そんな彼らを言葉巧みに、考える隙を与えず契約させる。
営業マンの中には催眠術を研究する者も出てきた。当然後に契約のキャンセルを申し出るお客様も多かった。しかし会社はそれを認めない。今の様なクーリングオフの制度もなく、キャンセル防止専門社員が巧みに説得する。この様な繰り返しで市場は日に日に狭くなっていった。
自分達自身で市場を狭め、厳しい日が続いた。以前のように売上も上がらなくなった。
結局、世間知らずの若者を相手にした営業など通用しないことにやっと気づいたのは営業を始めて4年くらい経った頃だった。
追い打ちをかけるように日頃の心労と商用車に頼った運動不足からついに体調を壊してしまった。坐骨神経痛だった。
右足がしびれ痛く車にも乗れなく通院の毎日となってしまった。
しかし体調を崩したのが大阪万博の前の年であったため、方向転換の機会を得たとも言える。
この神経痛がなかなか快方に向かわず、神経外科を転々としていた頃、外資系営業会社の自分の部下であり後輩だった男が内装工事屋の仕事をしているとの情報を得た。体も十分に動かないためアルバイトでしかも自由出社で雇ってもらえることで、稼働を始めた。
元々私は技術系の学校でもあり自分でも手先の器用さには自信があったしこの仕事は体の適度な運動にもなり非常によく思えた。
折しも1970年の大阪万博の前年で開会準備の直前でもあり、猫の手も借りたい忙しさだった。
一か月程経過した時、本来なら最低見習い期間一年、と言われている仕事であるが、思い切って後輩に工事の下請負を申し出た。
忙しい時期でもあり 仕事もいくらでもあった事、元上司であり先輩の私には断れなかったのだろう。快く受け入れ、仕事もどんどんくれた。一年後大阪府の内装工事業の登録もし、藤川の藤をとり屋号を藤インテリアと命名した。28歳であった。
次第に内装材料メーカー、および卸商社又建材商社等から直接頂けるようになった。東レ(当時の東洋レーヨン)、日東紡績、日本バイリーン、小西儀介商店(現コニシ・・・接着剤メーカー)等である。
とはいえ最初の2~3年はほとんど一人で現場に出ていた。その後職人見習いを入れるもなかなか長続きせず、入れ替わりの連続だった。
堺で小さいながらも環境の良い住宅街に、中古ではあるが家も購入し何とか生活が出来る程度で5年が経過した。
でも、やはりそこに夢があった。個人では良い人材は集まらないし所詮やれることは限られている。会社を設立し大きく羽ばたこうと!
しかし当時会社の設立は容易ではなかった。設立発起人に俗に言われる7人の侍が必要だった。父親はもちろん兄、叔父、親戚、友達に頼んで発起人になってもらった。友達には出資もしてもらい昭和51年6月 ついに登記をすることが出来た。
このころミナミやキタの水商売の仕事が多くなっていた。下請けではなくオーナーからの直接の受注で、しかも全ての内装工事を一括して受ける為高額になる。これは喜ばしいことではあるがリスクも伴う。
すべてでは無いが支払の悪いオーナーが多く集金に時間がかかるだけでなく、もらえない場合が多くまた気遣いもしなければならない。
なにしろそこには、怖いおじさんたちも多かったから。
そのようなこともあり、居宅のリフォーム工事をメインにする方針に切り替えていきたいと考えるようになった。
それと同時に株式会社設立当時からの願望だった「自社ビルを所持したい」という思いも強まった。
ある同業者が小さいながらも3階建ての事務所を持っていて、この会社を訪れるたびに「せめてこれくらいのビルを早く持ちたいものだ」と強く思ったものだった。
そんなある日、たまたま仕事で通りがかりに工事途中で中断しているような鉄骨3階建の物件が目に入った。
いてもたってもいられず電話をしたところ、値段は何とか予算内でいけそうだった為 即契約することを約束した。
一階が事務所二階三階を住まいにした。ガレージは別に借りなければならなかった。が念願の自社ビルである。
昭和56年、念願の自社ビルへの事務所の移転を機会に、下請けの内装工事の請負からリフォーム工事の元請けへと方針を転換した。
徐々にお客様も増えて行った。
当時は来月暇そうだなと思えばチラシをまけばすぐ反響はあった。仕事が切れて困ることは無かった。
スキルの乏しい私にでもあまりクレームはつかなかった。ただ各職種の仕事のことは解らなくとも最終の仕上がりの程度は内装工事で培われていた。出来栄えに対する基準は結構厳しかったはずである。
誠心誠意仕事をすれば職人さんもそうであり施主さんも納得してくれる、ということを実感する日々だった。
時はバブル景気を迎え、そして我が社にもバブル景気の崩壊の時がやってきた。好景気の間はリフォーム工事受注のためのチラシも必要ないほどだったが、バブル崩壊後はチラシ効果はあまりなくなってきた。
それでも他に集客する術をしらなかった。又過去にした折込チラシを入れるより方法がなかった。
ちょうどそんな頃、長男が我が社で働きたいという意思を持っていることを知った。コンピューター好きだった長男はてっきりその道に進むものだと思っていた、しかし何故か我が社に入社したいと言う。もちろん反対はしなかったし、むしろ嬉しくもあった。
今までより一層責任感を感じた。これからは自分の代だけではなく彼らの為の何かを残さなければならなくなったのだから。
そんなある日、1通のFAXが舞い込んだ。某建築業界向けノウハウ販売会社からのローコスト住宅(以下、Aホーム)のPRだった。
この時私の長男は既に建築専門学校を卒業して入社していた。再三のFAXに一度どんなものか見学をしに息子と一緒に行った。
ホテルで会食付きで説明を聞き、現地視察にも行った。数件の工事中あるいは完成後の物件も見た。
いずれも当時は考えられない程坪単価は安く 商品も悪くはなかった。
ただ彼らを信頼できなかった。ノウハウ販売会社もノウハウ提供元の建築会社もグルで契約金の詐欺行為を企ててるように思えた。
何故なら私は質問した。
「本当にこの商品がこの値段で建て、あなた方の宣伝方法で売れるのなら、私はすぐにも契約しこの値段のモデルハウスを建てましょう」
だが担当者は言った。
「それでは売れない、やはりオプション工事の費用は必要です」
膨大なマニュアルもあった。しかし「このマニュアルは契約するまで見せられない、詳しい説明も出来ない」とビニールで封をしていた。
ますます疑った。
でも興味はあった。
数日後私は数日前に見学に行った工務店を一人で訪ね、もっと詳しく聞こうと試みた。結果は同じだった。
その後もAホームのノウハウを購入した工務店を回り、聞き取り調査をした。
結局、訪問した3つの工務店全てがノウハウを手に入れただけで殆ど活動はしていなかった。Aホームのシステムのことを良くは言わなかった。
会社のフォローが皆無のためマニュアルだけでは活動は出来ないと言った。
ここで結論は出た。その後もしつっこく訪問あるいはFAXが届いたが受け付けなかった。
当時契約金は確か300万円だったと思う。
詐欺行為でなくても売りっぱなしで何の指導もなければ私が昔外資系の会社で採った営業方法と同じである。
そういう営業方法では成功しないことを、私は経験済みなのだから。でも本心では興味はあった。
ますますリフォーム業は氷河時代へと突入する。
我々リフォーム工事会社はもちろん畳屋さん、水道屋さん、サッシ屋さん、大工さん、それに不動産屋さんまでが競ってリフォームの折り込みチラシを入れた。その経費は莫大な金額だっただろう。さらに競って値段を下げて行った。自分達の利益を圧縮して。
我が社の周りでもどれ位の数の業者があっただろうか。毎週土曜日には5~8社位のチラシが折り込まれた。
数社の悪質業者も摘発され新聞紙面を賑わした。そのうちリフォーム業者も徐々に淘汰されたが、ますます受注は難しくなっていった。
生き残りをかけ辛抱強くまった。とにかく生き残らなければ意味がない。残れば何とか出来る。その一念であった。
そんなある日松下電工さん(現 パナソニックES)の商社である大五さんと、五代続く老舗の材木屋さんの社長がある話を持ってきた。
そこには以前説明会、現場見学会、また自分で調査したAホームのシステムの話が出てきた。
まだ彼らも本当のことはしらない。後日パナソニックESさんの担当部長さんから詳しく話を聞いた。
内容的にはAホームと殆ど同じである。
違うところは、具体的なマニュアルがある、又それが見れる。何よりの違いはパナソニックESさんの指導のもとに活動できることである。それに大阪エリアで一番乗り、ということだ。
Aホームと営業方法はほとんど同じだが、疑いは無かった。実際の営業マン募集要項、教育マニュアル、モデルハウス設営マニュアル、もちろん営業マニュアル等見た時に私の心は固まっていた。
平成18年、NBVグループ(ナショナルの家づくりグループ)に加盟。
河内長野市でモデルハウス開設、営業スタートさせるも営業マン教育につまずき、人選につまずき、初年度は最悪の年だった。ただひたすらパナソニックESさんの担当部長を信じ、耐えた。
借金のみが膨らみ、一時パナソニックESさんを恨んだ時もあった。散々な初年度も終わり、2年度には最初は僅か3社だった同業者もどんどんと増えた。
ライバル意識も増幅した。それぞれが必死で頑張った。
やっと営業のコツを掴んだのか慣れてきたのか、初年度は僅か1棟のみの売上は18棟になった。
3年目も過ぎようとしている今この100年に一度と言われる不況の中で昨年並みの売り上げが上がっている。
遂にこの時がやってきた。本来私の予定では60歳で息子が30歳になった時に引き継ぐ予定だった。代表取締役の交代である。私は自宅を阪南市に新築したのもこの時だった。引き継ぎをすれば、もはや事務所にあまり来る事も無いし、普段は口出しはしないほうが良いとの判断からあえて遠くに引っ越した。
しかし不況のさなか又まだ30歳では早すぎるとの判断もあり5年間を『引き継ぎ準備期間』とした。
5年間の準備期間は本当に有益だったと思う。いろいろ批判もあったが現社長にも社長の自覚と責任感を持たせる上では最高の時間だった。
自分が会長職に成った途端に売上が上がるのは喜ばしいことであるが、一寸複雑なところもある。この勢いを持続し今期以上に業績を延ばしてくれることを望むだけである。
後に私個人また会社を振り返って見た時 本当にラッキーの連続だったと思っている。
「運も実力の内」とよく言うが行動を起こして初めて運は向いて来る、待っていてもそれは来ない。
『夢は必ず持ち続けること。但しその夢は2種類あり、一つは一生かけて持つ夢、もう一つは、2年とか3年の短いスパンで持つ夢である。そしてこの夢は叶えられる可能性の高い夢であり、必ず実現することを確信して日々努力する。夢だけで終わるようなものではならない』
石川遼は”必ずマスターズに出場して優勝する” と小学校の作文に書いた。
私にすれば一寸大き過ぎる夢であるが 彼はその夢を着々と実現に近付けている。
私自身の夢もぜひ叶えたい。中学生の時抱いた”アメリカに行きたい” 今この夢を大きくふくらませ 世界のいろいろな所に行ってみたい と第二の人生で実行中である。またこれには英会話力があればより一層楽しめるだろう。勉強も忘れない。
それからもう一つの学生時代からの夢、趣味のフラメンコギターをスペインに行って現地の先生に学ぶこと そして本場の本物のギターを持ち帰る。これがボケ防止にもなる、私の生涯の目標としたい。
仕事は2人の息子に託した。
乱文乱筆にここまでお付き合いいただいた全ての方に感謝を込めて。
株式会社フィック 代表取締役会長
藤川 信雄